方法的禁止―デカルト、あんたは偉かった
写真
写真を撮ることを自らに禁じて外を歩くとあっこれ撮りたい!と思う風景に驚くほどよく出会う。
これは果たして、撮れないから撮りたいと思う単なる反作用なのか。
それとも撮影することを前提とせずに景色を見るからなのか。
お絵かき
なんとなく紙の切れ端に落書きをすると自分でも驚くほどうまく書けることがある。
これは果たして、うまく書かなくても良いという状況が及ぼした好結果なのか。
それともなんとなく書いただけというコンテクストに基づいたプラス評価を自らしているだけなのか。
ギター
試験なんかの期日が迫ってくると普段サボっているギターの練習がしたくなる。
これは果たして、試験という現実から逃避しているだけなのか。
それとも「いや、違うからね。毎日3時間練習するって自分の中で決めてたからね、だいぶ前から。うん。ほら、1日サボったら2日分下手になるっていうからもう計算上はギターやり始めたときよりも下手になってるからね。だから今日サボるわけにはいかないからね。(b´∀`)ネッ!」ということなのか。
結論
じゃあ、なにかを上手くこなしたいときにあえてそれを方法的禁止として自らに禁じ、そこから生じる反作用を利用してやろうというやり方が上手くいくかというと、これが案外上手くいったりするから驚きます。
でも、私はこの方法的禁止を用いません。
つまり、方法的禁止を禁止しているというわけです。
この禁止は一見すると禁止された方法的禁止という手法を誘発するようにも思えますが、その心配は無用です。
なぜなら方法的禁止を禁止するための禁止は妄信とも言うべき確信をもって行われるからです。
「われ確信する」とわれ確信する、ゆえにわれありとわれ確信するってわけです。
方法的禁止とそれを禁止するための禁止はそもそもベクトルの向きが異なるのでパラドックスのスパイラルに落ち込む余地はありません。
それはアキレスと亀の問題がx軸とy軸によって解決されたのと同様です。
では、なぜ方法的禁止を禁止するのか?
理由は簡単。
なんかまだるっこしいからです。
v( ̄Д ̄)v イエイ
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