キリストに妻がいたかも知れないという発見から見出す歴史とブログの共通点
2000年前に生きたイエス・キリストは、結婚していたのだろうか。これまで何世紀にもわたって取りざたされながら、有力な証拠を欠いていたこの問題が、新たに注目を集めている。きっかけは、キリストの妻に言及した古いパピルス紙の断片の存在が明らかになったことだ。
ニュース - 文化 - キリストに妻? 言及の古文書を発見 - ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト(ナショジオ)より引用
この古文書はパピルスで出来ており、書かれている文字はコプト語という言語だそうです。
そして最後の行に「そしてイエスは言った。私の妻は……」と書かれており、そこで途切れてしまっているのだとか。
なんともインディアナ・ジョーンズなお話ですが、歴史好きならば心躍るものですよね。
ところでこれはどこから出てきたのって話しになるわけですが、なんと個人が所有していたとのこと。
パピルス紙片を発見したハーバード大学のキング氏が「New York Times」紙の取材に対して語ったところによると、この紙片は個人収集家から貸し出されたものであり、理由は不明だが、何らかの事情でこれまで数十年間その存在を伏せられていたのだという。
同上より引用
「何らかの事情」…ダヴィンチ・コード的な事情でもあるんでしょうか…
歴史とはなにか
上記の記事を読んである高名な歴史学者が記していたことを思い出しました。
以下のようなものです
どんな文書にしたところで、その文書の筆者が考えていたこと以上のものを私たちに向かって語ることは出来ません―その筆者が起こったと考えていたこと、起こるべきだとか、起こるであろうとか考えていたこと、または、ただ、彼が考えていたと他人に考えてもらいたかったこと、いや、ただ、彼が考えていると自分で考えていただけのこと、それ以上のものを私たちに向かって語ることは出来ません。すべてこれらは、歴史家が文書の研究を行い、これを解読するまでは、何者をも意味しないのです。事実というものは、文書に載っているにしろ、載っていないにしろ、歴史家の手で処理されて始めて歴史家が使えるもので、そう申してよろしいなら、歴史家が事実を利用するというのは、処理過程なのです。
歴史とはなにか/E.H.カー著より引用
この古文書は現時点では「本物」という鑑定がされているようですが、極端な話、それが本物であれ偽者であれ、ある内容が記述された文書が発見された時点で問題はその文書に対する解釈へとシフトするわけです。
リアルタイムで今を生きる私たちが過ぎ去った過去を参照することで、過去もまた刻々と姿を変えていきます。
なぜなら私たち自身が流動的にその姿を変えており、歴史というものもそうした私たちを照射するスクリーンに過ぎないからです。
「過ぎない」という言い方をするとなんだか語弊がありますので、スクリーンとして「非常に有用である」といった方がいいかもしれません。
上述の「歴史とはなにか」の翻訳者である清水幾太郎は同書のまえがきで以下のように述べています
過去を見る目が新しくならない限り、現代の新しさは本当に摑めないであろう。E.H.カーの歴史哲学は、私たちを遠い過去へ連れ戻すのではなく、過去を語りながら、現在が未来へ食い込んでいく、その尖端に私たちを立たせる。
同上より引用
このような歴史観は先日読ませていただいた池田仮名 (id:bulldra)さんのネットでは「何を言ったか」よりも「どういう経緯で言ったか」/または既にストックを持った人達が、そこから先の他者のフローを抑えようとする件について - 情報学の情緒的な私試論βを私に連想させます。
この記事での「誰が言ったか→何を言ったか→どういう経緯で言ったか」という展開は、最初に読んだときにも「なるほどね~」と納得したものですが、この歴史学的なアプローチとあわせて再考すると、よく出来た記事だなあと感動すら覚えます。
歴史的な事象は誰が、何を、どこで、どのような文脈を背景として行ったかを観測(あるいは解釈)する必要があります。
観測はなるべく正確な方がいいに決まってますし、そのほうがロマンあふれるというものです。
しかし、どうせ見るものの解釈が最終的な形を決定してしまうわけですから、いずれかの要素を削除するなりしてコントロールを試みたところでたいして結果は変わらないんじゃないかと思ったりもします。
歴史を見るときもブログを書いたり読んだりするときも正確な観測と自由な解釈というのは是非持ち合わせたいものです(私にはあまりありませんが)。