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イニシャルB―あるいはゴカイとウミガメは恋をするか


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先日、バンブルビー通信(id:bbb_network)さんのブログはスタンドなのか ブログの特性がどう育っていくのかが楽しみ - バンブルビー通信という記事を読み、以下のようなコメントを書かせていただきました。

実は私のこのコメントには元ネタがありまして、かなり前のことですが村上春樹氏がなにかのインタビューに答えていたのかエッセイで書かれていたのか定かではないのですが、現実をフィクショナイズするのがドキュメンタリーで、フィクションにリアリティを与えるのが小説であるというような趣旨のことをおっしゃっていたのがそれです。

それを読んで、ほほう、相変わらず気の利いたことをおっしゃると思ったのを上記の記事を読み思い出したのでちょこっと形を変えて拝借したというわけです。


▼私のお気に入り『村上朝日堂』シリーズ


現実をなるべくフェアに世の中に対して知らしめようとするドキュメンタリーであっても(仮にそんなドキュメンタリーがあればの話ですが)取材した全てを網羅的に省略せず伝えることは不可能ですし、またそのようにしたところで現実が伝わるとも限りません。もちろん放送する時間枠なり、出版する書籍のページ数なりに従った形に収めないといけないわけですから、編集作業が行われます。そこに編集者の表現が含まれるわけですね。

あるひとつの思いを伝えるために300ページを費やした小説は非常に個人的な思い(常にそうとも限らないでしょうが)を表現するために、思いそのものの形を筆者の表現力というフィルターを通して読者との間に存在する客観的相関物を利用することでもともとフィクションであり、かつもし筆者の本当に思っていることをありのままに見ることが出来たならば拒絶してしまうかもしれない可能性を含んだ思いをリアルかつ読者に馴染みやすくジェネラライズした形で提供するわけです。

ブログの場合はどうでしょう?ライフハック的なものに関してはまあ現実を伝えているといえると思いますが、それもまた上記のドキュメンタリーがもつ特性を避けることは出来ないでしょう。日記的なものに関してはもちろん全てをありのままに書くということはないでしょうし(あったら逆に怖い)日記風に書いたという体で実は私小説を書いてらっしゃる方もいるでしょうし、普通に小説としてブログを書いてる方もいらっしゃいます。他にも様々な形態のブログがあるのだと思います。

上記のいずれにも共通するのが(当たり前の話ですが)、表現であるということです。現実を受信してそれを発信するにせよ、自分のなかから湧き起こったものを(完全に内的なものというのも考えづらいですが)形にするにせよ、そこに表現者としての解釈が含まれることは避けられません。というかもし避けることができても避けちゃったら意味ないよねって話です。ゴカイはゴカイ的な世界を持ってますし、ウミガメはウミガメ的な世界を持っています。(このあたりの話は池田仮名 (id:bulldra)さんのこちらの記事ですばらしく詳細に表現されています。お勧めの記事です。というか個人的に好きなだけですがはてなブックマーク圏における人工的環世界と縮小現実の可能性について - 情報学の情緒的な私試論β)ゴカイにとって砂が意味するところはウミガメにとってのそれとはほぼ無関係といってもいいかもしれません。両者の間にはある意味種族の違いよりも決定的な深淵が横たわっているのです。同じものに対する異なる意味という深淵です。(ところで「という」とタイプするとき、よく「ちう」になりませんか?私は3回に2回はなります)

結局のところ、表現はそれがどのような意図(商業的であれ芸術的であれあるいはその他のなに的であれ)で世に出されたかに関わらず、そこには志向性が含まれるのであって、またそのベクトルを途中で修正してもしなくても、ともかくその方向で打ち出されたという現実は否定しようがないものです。そしてそれがそれぞれの持つコンテクストとなり、波紋となって山吹色にオーバードライブするわけです。


ゴカイはある日勇気を出して語りだすかもしれません。

ねえウミガメさん、この辺の砂は珪素が多く含まれていてね。ぼくたちゴカイが住むには最適の土地なんだよ。
なんだってゴカイさん。いまなんの話をしたんだい。砂?ああ、この下のほうの景色のことだね。そういえばコレは砂っていうんだったね。名前も忘れていたよ。
たしかに、ウミガメさんにはそんな感じかもね。でも、なかなか住み心地いいんだよ、この砂ってやつはさ。
するってえと、こういうわけかい、ゴカイさん。あんた恥ずかしがり屋さんで砂にもぐってるわけじゃあなくって、そこが居心地がいいからそうしてるってのかい?
そのとおりでい!ウミガメさん。あんたなかなか話がわかるねえ、さすが卵んときゃあ砂ん中にいなすっただけあらぁな。
卵?ああそりゃあ卵んときゃあ砂浜にいたけども、それとコレとはわけが違わな。おいらは「砂浜」、あんたは砂ん中。全然違わぁな。
おんなじことさ、ウミガメさんよ。おいらだって海底だけじゃなくって波打ち際くらいまでなら行くことぁあるんだぜ。
へえ!そうなのかい!じゃあ今度卵を産む時には砂浜で会うこともあるかも知んないねえ。
かも知んないねえ。しかしあんた人気者だから人間が寄ってきてかなわねえや。
ちげえねえな、ゴカイさん。

なんて会話が浅い海の底でされていたら素敵だと思いませんか?

結局のところ、解釈と表現という(この「という」も「ちう」とタイプしてしまった)段階を踏むことが何かを発信するということであり、またその段階があればこそそれぞれの表現者はスタンドを発現することになるんでしょう。

ちなみに、私はスタンドが出てくる以前の第一部が好みです。

スピードワゴンはクールに去るぜ






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